HOME > トピックス サイトマップ

 

姜尚中氏の毎日新聞掲載記事 こころの情景 (毎日新聞 2016年3月6日)

小さい頃からの映画好きがこうじて、いつか映画に出てみたいと思ってきた。通行人Aのような端役でもいい。できれば憎たらしいちょい役のワルでもやってみたい。そう思っていたら、何とお声がかかったのだ。それもヒットメーカーで、今をときめく映画監督、行定勲さんからの依頼である。私は内心、どぎまぎしながらも、天にも昇る心地だった。

喜びながらも、どうして映画「GO]や「セカチュー(世界の中心で愛を叫ぶ)」など数々の注目作品を世に出してきた気鋭の監督が、私のような「ど素人」に声をかけてくるのか、訝しく(いぶかしく)思わざるをえなかった。きっと何かワケがあるに違いない。

そのワケはこうだ。

熊本県が地域創生の一環として、熊本出身の行定さんに、熊本を舞台にした、熊本出身の出演者による映画製作を依頼し、それで、同郷の私に白羽の矢が立ったらしい。もちろん、端役かちょい役にきまっている。私は、そう踏んでいた。

ところがどうだ。何と私は主役の一人になっていたのである。ストーリーはこんな具合だ。高校生の頃、映画作りに励んでいた友人と恋の鞘当ての末に失恋し、上京して映画監督になった中年過ぎの「謎の男」が、映画のロケで来熊。かつての憧れの女性の娘と淡い愛のやり取りの末、熊本を後にするというノスタルジックなラブストーリーだ。タイトルは「うつくしいひと」。そして私の役どころは、その謎の男だったのである。

これにはさすがに私もおじけづいてしまった。しかも脚本を読んでみたら、とうてい「ど素人」に務まるわけがないようなセリフが随所にちりばめられている。困った。しかし、もう遅い。すでに映画の準備は着々と進み、東大時代の同僚の教員でもあった蒲島郁夫県知事もご満悦と聞き、もはや万事休す。もうやるしかない。出たとこ勝負でいくしかなかった。

撮影は、熊本市内の小さな本屋さんや江津湖、夏目漱石記念館や熊本城、菊池水源に雄大な阿蘇の草千里など、熊本の名所・旧跡を舞台に進行した。何よりも驚いたのは撮影や設営、小道具や化粧など、実に多くの数のスタッフが監督の号令一下、黙々と自分の与えられた仕事に専念し、整然と撤収して次の仕事に取りかかる手際のよさだ。それはマニュアル化の可能な、デジタルの世界とは無縁の、熟練と経験がモノを言う超アナログの世界であり、スタッフの一つ一つの動きに私は感動せざるをえなかった。

その感動が見えないさざ波となって私の心に伝わり、いつの間にか最初の緊張は解け、いつしか自分も撮影現場にとけ込んでいたのである。

ヒロインの娘役の橋本愛さんの忍耐強い対応があったことも大きかった。日本を代表する大女優になりそうな若手のホープは、まだ20歳になったばかり。でも俳優としては彼女が先輩である。NGを繰り返す私を、ただ我慢強く見守ってくれたおかげで、私はつい調子に乗り、気がつくと、もっともらしくセリフを言えるようになっていたのだ。

1週間ばかりの疾風怒濤の日々が続き、終わってしまうとホットすると同時に何だか寂しくなる。それから数ヶ月後、監督はやや興奮気味にこう言った。「姜さんいいですよ、とてもいいんです。思った以上にいいんですよ。いい味出しているんです。見てから勘違いしないでくださいね。自分も俳優になれるって。でも間違いなくオファーがあるはずです」

「今後は、肩書きは俳優にするか」。気鋭の監督にほめられ、お調子者の私は、どこまでも舞い上がっていきそうだ。(東大名誉教授)

                                                          以上